海を望む丘にある小さなカフェ"Ciel bleu "。そこで織りなされる小さな物語と小さなミステリー。
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夜まで降り続いた雨も、一晩明けて朝になったら、雲一つない抜けるような青空が広がっていた。
予報によれば今日にも梅雨明けが宣言されるらしい。頬に触れる風はいつもの潮の匂いと昨日までは感じなかった熱気を含んでいる。いよいよ夏がやってくるんだ。
「よし!開けるよ」誰にともなく張り切った声をかけ、Closeと書かれたプレートを裏返しOpen に変える。ここは海を望む小高い丘にある小さなカフェ"Ciel bleu "。シェルブリュウと読む。
開店して間もなく、緑色のセダンが坂をゆっくり登ってくるのが見えたので、お湯を沸かし始める。
入り口ドアのベルがカランと鳴り、涼しげなブルーの麻ジャケットに淡いグリーンの蝶ネクタイ、きちんと折り目がついたベージュのコットンパンツ、そして足元はマロンブラウンのウイングチップという英国風の老紳士が悠然と入ってきた。
「おはようございます。いらっしゃいませ」
「おはよう。いつものブレンドを」
「かしこまりました」
老紳士はいつものようにカウンター席にゆったりと腰掛けた。コーヒーを待つあいだ、いつものように横を向いて海を眺める。
初めていらした時からしばらくはもっと景色が見やすい窓側の席にお座りになった。それが、このカフェの唯一のスタッフ兼オーナーであるわたしとお話しされるよにうになってから、こうしてカウンターで朝のひと時をお過ごしになる。
「お車の調子はいかがですか」
「ミッションとエンジンの調子がね。古い車だから梅雨の時期にぐずるのは毎度のことです。ああ、今日は海が遠くまで見える」
そうですねと言い、店の横の駐車場に停められたブリティッシュグリーンのジャガーを見る。流れるような曲線の美しいボディ。車なのに何だか色っぽい。
「今日から夏が始まるそうですよ。じめじめの梅雨もおしまい。ですから豆を変えてみました」
「ほう。それは楽しみだ」
「甘みのある豆をセレクトした、爽やかな夏ブレンドです。どうぞ」
淹れたての夏ブレンド第一号をカウンターの上にことりと置く。老紳士は添えたミルクを注いでから一口飲んで、美味しいと微笑んだ。
それからは、お庭のサルスベリが咲き始めたとか、こんなご時世のなかで開催されるオリンピックの是非についてなどを、いつもの穏やかな口調で話されていたが、急に、ところでと少し改まった声になった。
「もしもわかるなら教えて欲しいことがあるのだが。聞いてくれますか」
「わたしでよろしければ。何でしょう」
「お恥ずかしい話なのですが、昨夜から急に妻が口をきいてくれなくなってしまってね。しかし原因がわからないのです」
プライベートの話題なんてこの方にしては珍しい。そう思いながら、まだ他のお客様がいらっしゃらないし、せっかく打ち解けてくれたのだからと、詳しく聞いてみることにする。
「喧嘩でもされたのですか」
「いや。夕食が終わった後に、急に機嫌が悪くなったようです」
「奥様のお料理にクレームをつけた。それで機嫌が悪くなったとか?」
「いやいや、妻の手料理に文句を言ったことなど一度もない。それどころか、美味しいよといつも褒めている。お世辞などではなく、本当に美味しいのです」
仲の良いご夫婦の微笑ましい情景が浮かぶ。きっと奥様を大切にされているのだろう。でもそれなら尚さら原因がわからない。
「お食事中の会話の中に、何か奥様の気に障るような話題があった、これはいかがでしょう」
「話題と言ってもねえ。今日、あなたと話したような当たり障りのない内容ばかりだったと思います」
外した。まだまだ情報が足らないみたいだ。
「口をきかなくなる前に、奥様は何かおっしゃっていませんでしたか」
「確か、あなたは私の気持ちがわかっていないとか、そんなことを言っていた。でもいきなりそんなことを言われてもぜんぜん思い当たらないのですよ」
老紳士が夏ブレンドを飲み終えているのに気がついた。二杯目のオーダーを確認する。
「今のと同じものを。とても美味しかった」
「ありがとうございます」
ブレンド用の豆を挽き、その香ばしい香りの粉をドリッパーにセットしながら考える。
奥様は夕食のあとに機嫌が急に悪くなった。だとしたら原因はやはり夕食にあるはずだ。しかし夕食に提供されたお料理は問題なかった。
あなたはわたしの気持ちがわかっていない、か。その奥様の言葉こそ最大の手がかり・・・なんだけど。
ご夫婦の夕食の情景を思い浮かべてみる。仲睦まじい老夫婦を。
奥様はきっとご主人の身体に良いものをと考えてお料理を作っている。テーブルに並んだ皿。ご主人はそのお料理を美味しいと褒める。しかし急に奥様の機嫌が悪くなる。
料理が並んだテーブル。テーブルの上には何がある?和食なら箸。洋食ならナイフとフォークかな。
そうだ。もしかしたらご主人の食べ方が汚かったとか。それで機嫌を損ねてしまった。でもそれなら、奥様のあの言葉の意味がわからなくなる。
お待たせしましたと、二杯目の夏ブレンドをミルクを添えて老紳士の前に静かに置く。
あっと閃いた。おそらく、これだ。
「わかりました。奥様が口をきかなくなってしまった原因がわかりました!」
〜後編へ続く
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